この舞に思いを込めて/第一章・その2「再会と序列」

女装小説
  

それから5年の歳月が流れた。栄一、50才。

初夏の朝。オフィスフロアに貼り出された人事発令の掲示に、人々がざわめいていた。
乾栄一も、そのひとりだった。

「……来たか。今度こそ、俺の番だろう」
期待を胸に、掲示の前に立った。

だが――そこにあったのは、自分の名ではなかった。

《営業部・課長:佐々木 卓(現:営業部・チームリーダー)》(49歳)

ひとつ年下の後輩、佐々木が、課長に昇進していたのだった。

心のどこかで覚悟していたはずだった。だが、現実に突きつけられたその瞬間、栄一の胸には重く鈍い痛みが走った。
「……また、抜かれたのか」虚脱したような気分で、仕事を終えた。

数日後の夜、栄一は同期で経理部課長を務める田淵裕之と、都内の居酒屋で飲んでいた。
裕之とは古くからの付き合いで、気の置けない間柄ではあったが、栄一は出世という話題だけは避けていた。
プライドが、それを許さなかった。

酔いも回り、会話が緩んだころ。裕之がふと、話を切り出した。
「そういえば、経営戦略部ですっごくがんばってるね。七瀬沙紀さん」
「……えっ?」
その名を聞いた瞬間、栄一の胸にざらりとした感触が蘇る。あのとき、自分が容赦なく叱責し、突き放した少女の名だった。

「彼女、すっごいよ。経営戦略部に移ってから、目覚ましい活躍らしい。
2年前に史上最年少でチームリーダーに昇格してさぁ、それからも成果を次々に出してて、評価も高い」
「……そうなのか」
「チームの統率力もあるし、人望も厚い。課長どころか、将来の部長候補として、名前が挙がってるって噂だよ」

グラスの中の氷が、静かに音を立てた。
「……まさか、あの子が?」
栄一は、自分の耳を疑った。

かつて毎日のように叱り飛ばしていた新人が、いまや会社の将来を担う人材として評価されている――。
「いや、そんなはずは……」
彼の中で、過去と現在が交錯する。

***

そして、1か月後。
臨時の人事発令が社内に掲示された。

《経営戦略部・課長:七瀬 沙紀(現:経営戦略部・チームリーダー)》(26歳)

その名前を目にした瞬間、栄一の脳裏に、あの静かに耐えていた少女の姿が鮮明によみがえった。
いつも淡々と働きながら、決して折れなかったまなざし。
あのときの涙、あのときの拳。

それらすべてが、現実の逆転として彼の目の前に突きつけられていた。

「……俺の地位は、ついに、あの沙紀にまで――」

その瞬間、栄一の背筋を、冷たいものが走り抜けた。彼の胸には、ただならぬ不安が、じわじわと膨れ上がっていった。
それが単なる焦燥ではなく、避けられぬ運命の序章であることを、このときの彼は、まだ知る由もなかった。

***

それからさらに二年の月日が流れた。

乾栄一は、いまだ課長昇進の夢を果たせずにいた。
年齢はすでに52歳を過ぎ、昇進の道は閉ざされつつある現実を、否応なく意識せざるを得なかった。

社内では定例の人事発令が近づき、ざわめきが広がっていた。
長年、営業部の顔として君臨していた部長・平島博樹が、役職定年を迎えるのと同時に退職する噂が広まっており、後任が誰になるかに注目が集まっていたのだ。
「次は、やっぱり卓だろうな……」
心のどこかでそう思いつつ、栄一は落ち着かない気持ちで発令を待っていた。

しかし、その掲示を目にした瞬間――。

《営業部・部長:七瀬沙紀(現:経営戦略部・課長)》(28歳)

全身が凍りつくような衝撃が、栄一を貫いた。

沙紀――あの沙紀が、おれの部長に。

課長就任からわずか2年。20代での昇進。
秘かに、次期執行役員候補だとの噂も流れていた、そのステップとしての行き先がよりによって、営業部だというのか。

「……これは、悪い冗談だろう」

誰にともなく呟いたが、胸に込み上げる不安は、もはや笑いごとでは済まされないほど強烈だった。

***

人事が正式に施行される前日。

営業部フロアに、現部長の平島を先頭に、新たに就任する沙紀、そして課長の佐々木卓らが、並んで現れた。
新体制の面々が、堂々とした足取りでオフィスに入ってくる。

コツコツ……と、ヒールの音が、フロアに響き渡る。
沙紀は、かつての無口な新人とはまるで別人だった。
背筋を伸ばし、整えられた髪と凛とした視線。スーツの着こなしも洗練されており、その姿からは確かな自信と威厳が漂っていた。

道を空けた社員たちが一列に並び、一様に深々と頭を下げる。
その中に、栄一の姿もあった。

フロアでは、平島の退任あいさつに続き、新部長として沙紀の就任あいさつが行われた。

彼女は、明瞭な口調で語る。
「営業部の皆さんと共に、新たな風を吹かせていきたいと思っています。
現場の知恵を活かしながら、私たち自身がこの商社の変革の担い手であるという誇りを持ちましょう」
その言葉に、多くの社員が頷き、どこか感動すら覚えていた。
その姿はまさに、未来の会社を背負うにふさわしい存在だった。

かつての沙紀の姿が、栄一の脳裏にちらつく。
厳しく叱責し、見下していたあの少女が、いまや部下百名超を率いる部長となっている。

自分はその、100名超の中の一人。
七年という歳月の中で、自分は何を得たのか――。
そして、彼女はどれほどのものを手にしてきたのか。

心の奥底に、重たい屈辱が沈殿していくのを、栄一は否応なく感じていた。

***

営業部・七瀬沙紀部長の就任から、約一か月が経った。

ある冬の夜。年末恒例の営業部忘年会が、都内のホテルで開催された。
気温は低く、空気は澄んでいたが、会場内は酒と笑い声に包まれていた。

乾栄一は、ただ一人、酒の勢いにも馴染めず、落ち着かない心を抱えていた。
気が付けば、トイレへと席を立ち、廊下を歩いていた。

そのときだった――。
「あら、乾さん」
背後から聞き慣れた声がした。

振り返ると、そこには部長・七瀬沙紀の姿があった。
黒のパンツスーツに身を包み、落ち着いた表情で栄一を見つめている。

「お久しぶりです。……あの節は、ご指導ありがとうございました」

栄一は一瞬、言葉を失いかけた。

「あ、ああ……沙紀さん。こちらこそ、これからもよろしく」

どこかぎこちない笑顔を浮かべながら返すと、沙紀は一歩、彼の方へ近づいてきた。

「乾さん、……ひとつ、よろしいですか?」
「うん? なにか?」
「お忘れですか? 私が入社したばかりのころ、目上の人には敬語を使えって、あなたから厳しく教えていただきましたよね?」
「え……」
「それから、仕事上の上下関係を大切にするようにって。上司にはきちんと敬意を持って接しろって」

その口調に、笑みはなかった。
静かな口ぶりの中に、明確な意図が込められている。

「……あ、ああ」
「そのとき、どんなふうに返事しろと教わりましたっけ?」

沈黙の間が流れる。
かつて自分が放った言葉が、まるでブーメランのように突き刺さってくる。

「……は、はい。沙紀さん、これからもよろしくお願いいたします」
「いま、わたしはあなたの“部長”ですけど」

沙紀の表情が、わずかに厳しくなった。

「……はい、部長。これからもよろしくお願いいたします」
「挨拶の仕方は、それでよろしかったですか? 昔の私は、もっとしっかり頭を下げるようにと、指導いただきましたけど?」

栄一は、一瞬迷ったあと、ゆっくりと深く頭を下げた。

「……はい、部長。よろしくお願いいたします」
「はい、いい挨拶ですね」

そう言って、沙紀は涼やかな笑みを浮かべながら、廊下を歩いて去っていった。

彼女の背中が見えなくなるまで、栄一はその場で頭を下げ続けていた。
その姿を見ている者はいなかったが、栄一の胸の中には、自分自身の小ささと情けなさが、雪のように降り積もっていた。

ふと、込み上げてくるものがあった。
だがそれは、悔し涙でも、怒りでもなかった。

――ただ、悲しかった。

かつて自分が教えた礼儀が、今、皮肉にも自分自身に突き付けられている。
その現実が、何よりも辛かった。

***

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