昼下がりの午後。
乾栄一のデスクで、携帯電話が鳴った。
ディスプレイには「佐々木課長」の名。
「乾さん、すみません。会議室Aに、大至急お願いします」
用件は告げられなかった。
だが、その声にはどこか焦りがにじんでいた。
会議室に入ると、そこには既に佐々木卓、そして部長である沙紀が座っていた。
沙紀は足を組み、腕を組み、冷ややかな目で扉を開けた栄一を睨んでいた。
その視線に、栄一は思わず背筋を伸ばした。
「……失礼します」
「乾さん」
沙紀の声が、鋭く空気を裂いた。
「この資料、なんですか? これ」
彼女の手元には、営業部が役員会議で報告するための、重要資料。
沙紀が卓に作成を指示し、そこから栄一に下ろされたものである。
「……はぁ」
「“はぁ”じゃありません。これは、役員会議で使用する、特定顧客の事例報告ですよ。
それを、こんな雑な体裁で、まとめたつもりなんですか?」
沙紀の語気が、明らかに強まった。
声のボリュームは抑えられていたが、その緊張感は部屋全体を支配していた。
「要点はバラバラ、情報の羅列ばかり。図表の意味も明確でない。
この資料を見て、何を伝えたいのか、誰が理解できるというのです?」
「……申し訳ありません」
「しかも、ここ、ここ、そしてこれ。データがすべて間違っています」
バサッと資料のページがめくられ、問題点が指摘されるたびに、栄一の内心は崩れていった。
「佐々木課長、あなたも監督責任があるはずですよね? 今まで何を見ていたんですか?」
「……申し訳ありません、部長」
沙紀は深いため息をついた。
「これを見せる相手は、役員の方々です。経営層に向けた、営業部の現状を説明する、最重要の資料です。
営業部の信頼が、これひとつで問われるんですよ。あなたがた、わかっているんですか?」
その言葉には、冷静な怒りと、情けなさすら滲んでいた。
栄一は、言葉を失ったまま、ただ黙って頭を垂れるしかなかった。
沙紀は、栄一の年齢など一切意識していないかのように、容赦なく、理詰めで叱責を重ねていた。
沙紀はまだ28歳。
対する栄一は、52歳。
2人の間には、まるで親子のような年齢差がある。
しかし、会議室に流れているのは、上司と部下――ただそれだけの、厳然たる“序列”だった。
「乾さん、大至急この資料、さっき言ったとおりに作り直してください。
十六時の役員会議に、間に合わせてください」
「……はい。しかし……」
「何ですか?」
栄一の表情は、恐怖と苦渋に満ちていた。
「……実は、グラフの作り方が……わからなくて……」
その一言が、静寂を引き裂いた。
沙紀の目が、鋭く見開かれた。
「――は?」
その表情は、怒りというよりも、呆れだった。
一瞬、言葉を失った沙紀が、深く息を吐いたのち、ゆっくりと電話を取った。
「……あ、みずきさん? 沙紀だけど。ちょっと今、会議室Aまで来てもらえますか?」
そう――。
資料の作成を実際に担当していたのは、栄一の部下である早崎みずきだった。
栄一は、複雑な作業をすべて、彼女に任せていたのだ。
そして、沙紀はその事実を、今ここで“確認しようとしている”。
部屋の空気は凍りついていた。
***
扉がノックされた。
「失礼します」
現れたのは、早崎みずき。
営業部に配属されて3年目、沙紀の高校の後輩でもあり、若手の中でも群を抜いて勘がよく、しっかり者として知られていた。
みずきは、部屋に入った瞬間に空気を読み取ったようだった。
沙紀と卓、そして押し黙った栄一――この組み合わせが意味するものを、瞬時に理解していた。
「みずきさん、ありがとう。いま呼んだのはね、乾さんが作ったこの資料について、少し確認したくて」
沙紀はそう言いながらも、その声の裏には明確な“試し”が込められていた。
「はい……もしや、役員会議で使う資料の件でしょうか?」
「そう。それ、どうしてわかったの?」
「私、正直少し不安だったんです。役員向けの資料を、わたしなんかが手伝ってもいいのかって」
「なるほど。じゃあ、手伝ったということね」
「はい。乾さんから、グラフの作成などを依頼されて……」
沙紀は、わかりやすく頷きながら、目だけで卓と栄一を見据えた。
言葉はなくとも、その視線がすべてを語っていた。
「ねえ、みずきさん。この資料、あなたが作ってて、何か気になる点はなかった?」
少し逡巡したあと、みずきは小さく息を吸い込み、はっきりと口を開いた。
「正直に言いますと……文面の構成や、グラフの内容が、やや的外れだと感じていました。
ですが、あくまで乾さんの指示どおりでしたので、そのままに……」
「そうよね、あなたに非はないわ。ありがとう、率直に言ってくれて」
沙紀の声は穏やかだった。だが、芯には氷のような冷たさがあった。
「でね、みずきさん。急で悪いのだけど、この資料、16時の会議までに作り直したいの。手伝ってくれる?」
「はい。実は、念のために修正版をひとつ用意していたのですが……」
「えっ……もうできてるの?」
「はい。ご確認いただけますか?」
みずきが差し出した修正案は、要点が整理され、図やグラフも明確で説得力があった。
まるで、本来こうあるべきだったという“模範解答”のような資料。
沙紀は静かに目を通し、満足そうに頷いた。
「完璧ね。ありがとう、みずきさん。本当に助かったわ」
「お役に立ててうれしいです。では、失礼します」
みずきが去ると、沙紀は資料を机に置き、二人をじっと見た。
「今回は完全に、みずきさんの個人能力に助けられましたね」
静かな声だったが、その一言が、何よりも重く響いた。
栄一も卓も、言葉が出なかった。
みずきという若手が、自らの上司たちのミスを、無言で正していた。
「部長……申し訳ありませんでした」
卓が頭を下げる。
その隣で、栄一も、ただ無言のまま、深く頭を垂れていた。
沙紀は、静かに頷いた。
「……次はありません」
それだけを言い残し、沙紀は資料を持って部屋を出ていった。
ヒールの音が、再び会議室の床を叩いた。
その音は、まるで“判決の鐘”のように、栄一の心に鳴り響いていた。
***
早春の風が、オフィス街を吹き抜けていた、翌朝。
役員会議は無事に終了し、沙紀のプレゼンテーションは社内で高く評価されたという噂が広まっていた。
営業部の名を守ったのは、部長・七瀬沙紀、そして若手の早崎みずき――。
栄一の名前は、そこにはなかった。
***

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