この舞に思いを込めて/第一章・その3「叱責の会議室」

女装小説

昼下がりの午後。
乾栄一のデスクで、携帯電話が鳴った。

ディスプレイには「佐々木課長」の名。
「乾さん、すみません。会議室Aに、大至急お願いします」

用件は告げられなかった。
だが、その声にはどこか焦りがにじんでいた。

会議室に入ると、そこには既に佐々木卓、そして部長である沙紀が座っていた。
沙紀は足を組み、腕を組み、冷ややかな目で扉を開けた栄一を睨んでいた。
その視線に、栄一は思わず背筋を伸ばした。

「……失礼します」
「乾さん」

沙紀の声が、鋭く空気を裂いた。

「この資料、なんですか? これ」

彼女の手元には、営業部が役員会議で報告するための、重要資料。
沙紀が卓に作成を指示し、そこから栄一に下ろされたものである。

「……はぁ」
「“はぁ”じゃありません。これは、役員会議で使用する、特定顧客の事例報告ですよ。
それを、こんな雑な体裁で、まとめたつもりなんですか?」

沙紀の語気が、明らかに強まった。
声のボリュームは抑えられていたが、その緊張感は部屋全体を支配していた。

「要点はバラバラ、情報の羅列ばかり。図表の意味も明確でない。
この資料を見て、何を伝えたいのか、誰が理解できるというのです?」
「……申し訳ありません」
「しかも、ここ、ここ、そしてこれ。データがすべて間違っています」

バサッと資料のページがめくられ、問題点が指摘されるたびに、栄一の内心は崩れていった。

「佐々木課長、あなたも監督責任があるはずですよね? 今まで何を見ていたんですか?」
「……申し訳ありません、部長」

沙紀は深いため息をついた。

「これを見せる相手は、役員の方々です。経営層に向けた、営業部の現状を説明する、最重要の資料です。
営業部の信頼が、これひとつで問われるんですよ。あなたがた、わかっているんですか?」

その言葉には、冷静な怒りと、情けなさすら滲んでいた。

栄一は、言葉を失ったまま、ただ黙って頭を垂れるしかなかった。

沙紀は、栄一の年齢など一切意識していないかのように、容赦なく、理詰めで叱責を重ねていた。
沙紀はまだ28歳。
対する栄一は、52歳。
2人の間には、まるで親子のような年齢差がある。
しかし、会議室に流れているのは、上司と部下――ただそれだけの、厳然たる“序列”だった。

「乾さん、大至急この資料、さっき言ったとおりに作り直してください。
十六時の役員会議に、間に合わせてください」
「……はい。しかし……」
「何ですか?」

栄一の表情は、恐怖と苦渋に満ちていた。

「……実は、グラフの作り方が……わからなくて……」

その一言が、静寂を引き裂いた。
沙紀の目が、鋭く見開かれた。

「――は?」

その表情は、怒りというよりも、呆れだった。
一瞬、言葉を失った沙紀が、深く息を吐いたのち、ゆっくりと電話を取った。

「……あ、みずきさん? 沙紀だけど。ちょっと今、会議室Aまで来てもらえますか?」

そう――。
資料の作成を実際に担当していたのは、栄一の部下である早崎みずきだった。
栄一は、複雑な作業をすべて、彼女に任せていたのだ。

そして、沙紀はその事実を、今ここで“確認しようとしている”。
部屋の空気は凍りついていた。

***

扉がノックされた。
「失礼します」
現れたのは、早崎みずき。
営業部に配属されて3年目、沙紀の高校の後輩でもあり、若手の中でも群を抜いて勘がよく、しっかり者として知られていた。

みずきは、部屋に入った瞬間に空気を読み取ったようだった。
沙紀と卓、そして押し黙った栄一――この組み合わせが意味するものを、瞬時に理解していた。

「みずきさん、ありがとう。いま呼んだのはね、乾さんが作ったこの資料について、少し確認したくて」

沙紀はそう言いながらも、その声の裏には明確な“試し”が込められていた。

「はい……もしや、役員会議で使う資料の件でしょうか?」
「そう。それ、どうしてわかったの?」
「私、正直少し不安だったんです。役員向けの資料を、わたしなんかが手伝ってもいいのかって」
「なるほど。じゃあ、手伝ったということね」
「はい。乾さんから、グラフの作成などを依頼されて……」

沙紀は、わかりやすく頷きながら、目だけで卓と栄一を見据えた。
言葉はなくとも、その視線がすべてを語っていた。

「ねえ、みずきさん。この資料、あなたが作ってて、何か気になる点はなかった?」

少し逡巡したあと、みずきは小さく息を吸い込み、はっきりと口を開いた。

「正直に言いますと……文面の構成や、グラフの内容が、やや的外れだと感じていました。
ですが、あくまで乾さんの指示どおりでしたので、そのままに……」
「そうよね、あなたに非はないわ。ありがとう、率直に言ってくれて」

沙紀の声は穏やかだった。だが、芯には氷のような冷たさがあった。

「でね、みずきさん。急で悪いのだけど、この資料、16時の会議までに作り直したいの。手伝ってくれる?」
「はい。実は、念のために修正版をひとつ用意していたのですが……」
「えっ……もうできてるの?」
「はい。ご確認いただけますか?」

みずきが差し出した修正案は、要点が整理され、図やグラフも明確で説得力があった。
まるで、本来こうあるべきだったという“模範解答”のような資料。

沙紀は静かに目を通し、満足そうに頷いた。

「完璧ね。ありがとう、みずきさん。本当に助かったわ」
「お役に立ててうれしいです。では、失礼します」

みずきが去ると、沙紀は資料を机に置き、二人をじっと見た。

「今回は完全に、みずきさんの個人能力に助けられましたね」

静かな声だったが、その一言が、何よりも重く響いた。
栄一も卓も、言葉が出なかった。
みずきという若手が、自らの上司たちのミスを、無言で正していた。

「部長……申し訳ありませんでした」

卓が頭を下げる。
その隣で、栄一も、ただ無言のまま、深く頭を垂れていた。

沙紀は、静かに頷いた。

「……次はありません」

それだけを言い残し、沙紀は資料を持って部屋を出ていった。
ヒールの音が、再び会議室の床を叩いた。
その音は、まるで“判決の鐘”のように、栄一の心に鳴り響いていた。

***

早春の風が、オフィス街を吹き抜けていた、翌朝。

役員会議は無事に終了し、沙紀のプレゼンテーションは社内で高く評価されたという噂が広まっていた。
営業部の名を守ったのは、部長・七瀬沙紀、そして若手の早崎みずき――。
栄一の名前は、そこにはなかった。

***

  

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