それは、ある月曜の朝のことだった。
営業部のデスクに着いた乾栄一に、内線が鳴った。
「……佐々木です。すみません、少しお時間いただけますか」
いつものような軽さがない。声は沈み、重苦しい何かを含んでいた。
会議室に入ると、佐々木卓が気まずそうな顔で待っていた。
資料の束もパソコンもない。それだけで、ただならぬ空気が察せられた。
「乾さん……本当に申し上げにくいのですが」
卓が、目を伏せたまま切り出した。
「……チームリーダーを、退いていただけないでしょうか」
一瞬、意味がわからなかった。
だが、その言葉が脳内で整理された瞬間、栄一の心に氷の塊が落ちた。
「……そう、か」
「部長からのご指示です。若手の登用を推進するように、と……」
栄一は、わずかに口元を歪めて笑った。
力のない、乾いた笑いだった。
「まあ……そうだよな。そろそろ次の世代に譲る頃かもしれないな」
言葉ではそう言ったが、胸の奥で何かが崩れていく音がした。
チームリーダー。
地味な役職だが、それでも“自分の場”だった。
チームを束ね、指示を出すポジション。その肩書が、唯一残された“誇り”だった。
それを今、手放さねばならなくなってしまった。
***
数日後、正式な発令が社内で告知された。
《営業部・チームリーダー:早崎みずき(現:営業部・係員)》(24歳)
会議室でのあの一件から間もないうちに、みずきは“最年少のリーダー”として就任を果たしていた。
社内は驚きと称賛の声で沸いた。
一方で、その裏でリーダー職を外れた栄一に注目する者は、ほとんどいなかった。
その日、栄一は自ら、みずきのもとを訪ねた。
「……みずきさん、これからも、よろしくお願いいたします」
部下として、頭を下げて、上司に挨拶をする。かつての自分が教えたルールを、今は自らに課している。
「はい、乾さん。これまでのご経験、ぜひいろいろとご教授ください。よろしくお願いいたします」
みずきは、変わらぬ丁寧な口調で返してきた。
だが、その表情は、かつての“教わる側”ではなかった。
すでに“導く側”の風格をまとい始めていた。
「で、早速ですが、乾さん。PCソフトを、これからしっかり使いこなせるようになってください」
「……はい」
「今後、資料作成はすべて、ご自身で対応いただきたいです。私はリーダー業務で手一杯になるので。
指示通りに図やグラフを作っていただけるようになれば、とても助かります。よろしくお願いいたします」
言葉に刺はない。だが、それは明確な“上下”の宣言だった。
みずきは、もう“若いだけの後輩”ではなかった。
「……はい、わかりました」
頭を下げながら、栄一は気づいていた。
――自分は今、完全に時代の“後ろ側”に立っている。
肩書きが消え、立場も消え、残ったのは名刺の名前だけ。
それすらも、いつか無力な紙切れになる日が来るのだろうか。
いや――その日は、もう、近い。
***
年の瀬も近いある朝。
三ツ矢商事にとって、今年最大級とされる重要商談が、いよいよ本番を迎えようとしていた。
応接室には、相手企業の重役クラスが来社予定。
社内でも一部の限られたメンバーだけが対応する厳戒態勢が敷かれていた。
乾栄一は、デスクで資料整理をしていた。
かつてなら、こうした大一番には自ら参加していた。
だが、今では――そんな期待を抱くことすらしなくなっていた。
そのとき、卓から電話が入った。
「乾さん、すみません。応接室にお茶を持ってきてもらえますか」
「……わかりました」
言葉を短く返して、給湯室に向かう。
湯を注ぎ、丁寧に急須をまわし、湯飲みに注いでいく。
手の動きは慣れていた。いや、慣れてしまったのだ――この“裏方の仕事”に。
応接室の扉を開けると、重苦しい空気が充満していた。
三ツ矢商事側の最前列には、執行役員である、同期入社の中村静香。
入社当時は、言葉を交わすこともあった、同期の中でも数少ない女性社員。だが、いまはとうに手の届かないポジションにまで昇ってしまっていた。
その隣に、営業部長・七瀬沙紀。
そしてその背後には、チームリーダーの早崎みずき。
最後列はに、かつて課長だった、佐々木卓――。
そのさらに後ろに、今、自分が立っている。
茶を運びながら、相手企業の幹部の一人がこちらに気づいた。
「あれ? 乾さん……お久しぶりですね」
「……どうも」
以前、ともに仕事をした取引先の部長だった。
少しばかりの驚きと戸惑いが、その声に混じっていた。
だが、栄一はただ、軽く会釈を返すだけだった。
しかし、
――会話を続けるな。
そう言わんばかりに、みずきが静かに間に入った。
「乾さん、もういいですよ。ありがとうございました」
まるで「あなたには、これ以上の役割はありません」と言い渡されたかのようだった。
茶を運び終えた栄一は、誰にも見られることなく、静かに応接室を後にした。
その背中に、声はかからなかった。
視線も向けられなかった。
扉が閉まる音が、まるで幕が下りる音のように、耳に響いた。
――あれほど望んでいた、大きな仕事の舞台。
今では、その入り口でお茶を運ぶだけの存在になっていた。
ただの補助。
ただの空気。
ただの“かつての人”。
自分の名前が、誰かの記憶の中から少しずつ薄れていくのが、肌でわかる。
今の立場が“当たり前”になっていく感覚が、なにより恐ろしかった。
“乾さん、もういいですよ”
その一言が、心の奥に、何度も何度も、こだまのように残り続けていた。
***
栄一は、三ツ矢商事を退職する決意を固めていた。
まだ定年前の、56歳。だが、もう限界だった。
周囲が変わっていくのを見届けることにも、
自分の存在価値がすり減っていくのを実感することにも、
心が耐えられなかった。
退職願を出すその手は震えていたが、誰にも悟られないよう、静かに処理を済ませた。
これといった送別会もなかった。希望もしなかった。
ほんの数人、かつての部下だった卓と数名の同僚が、最後の日にエントランスで彼を見送ってくれた。
実はその朝、社内では別の話題で盛り上がっていた。
それは、新たな人事発令。
《取締役専務:中村静香(現:執行役員)》(52歳)
《執行役員:七瀬沙紀(現:営業部・部長)》(32歳)
――社内初、生え抜き女性取締役の誕生。
――そして、32歳の若さで執行役員に就任した七瀬沙紀。
経済誌やテレビでも報じられたそのニュースは、瞬く間に話題となり、社内の掲示板やSNSは歓喜と祝福の声であふれていた。
「これからうちの会社にも、新しい風が吹きそうだな」
「いやあ、うちも変わったよなあ……」
「女性がここまで出世する時代か……」
社員たちの声が、エントランスにも漏れ聞こえてくる。
そしてさらには、
《営業部・課長:早崎みずき(現:営業部・チームリーダー)》(27歳)
とも。
その中を、栄一は一人、背を向けて歩いていた。
ふと、エントランスの脇で、すれ違うひとりの女性が目に入った。
中村静香――今や専務取締役となった、かつての同期。
目が合うと、静香はごく自然に、微笑を浮かべて軽く会釈した。
そして、ごく静かに言った。
「乾くん、お疲れさまでした。また会う気がするわ。今度は会社じゃなくて、もっと自由なところで」
栄一は、一瞬だけ戸惑いながらも、うなずいた。
それは、かつての自分に向けられた言葉ではなく、いまの“何者でもない自分”にかけられたものだと、感じたからだった。
振り返らない。
振り返ってしまえば、何かを期待してしまいそうだったからだ。
期待して、傷つき、また打ちのめされる――
そんな自分には、もう耐える力が残っていなかった。
ただ一歩ずつ、無言で歩く。
この会社に入社したあの日、胸に抱いていた希望。
上司に食らいつき、同期と競い合い、後輩には背中を見せようとした日々。
だが、最後に残ったのは、何ひとつ役職のつかない“元社員”という肩書だけだった。
けれど、それでも――。
「ありがとうございました」
心の中でだけ、会社に向かって深く礼を述べた。
それだけは、忘れてはならないと、どこかで思っていた。
彼の背中に、春の風が静かに吹いていた。
新しい季節が、誰かにとっての始まりを告げている。
そして、栄一にとっては、遅すぎた“終わり”が、ようやく形を持った瞬間だった。
***

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