[休職中の生活]『無力な自分』の気付き

適応障害との格闘

「なぜこうなったの?」との自問

「あれだけ会社のために精魂込めて働いていたのに、どうして自分は認められないうえに、こんな目に遭わなければならないのだろう?」
当初はこんなネガティブな嘆き節が頭の中を駆け巡っていたものでしたが、
やはりいっぱい睡眠をとりプレッシャーもない生活を送らせてもらっているうちに徐々に冷静さを取り戻し、
改めて振り返ると自分自身が正すべきであったと思われる面が見えてきたものです。

冷静に考えられないうちはついつい主因を外的環境に求めがちだったのが、
だんだんと自分の考えや行動の未熟さが招いたものだとの思いが芽生えてきました。
とはいえ、ストレッサーに対する思いが完全には消えることはありませんが...。

さらに余裕が生まれると、その自分の未熟さの原因まで突っ込んで自問するようになってきました。
いわゆる ”なぜなぜ分析” を自分自身の心に対して行うようなものですね。

自分自身への投資とは?

自分なりの結論は、
きっと仕事の忙しさに託けて自分自身への投資(自己投資)を怠って生きてきた結果がこうなったもの、
と考えてます。

自己投資なんて難い表現で失礼しましたが、簡単に言うと、
・読書や資格試験勉強で知識をつけたり、
・ボランティア活動で地域貢献したり、
・美術館やコンサートで芸術に触れたり、
・他人とのコミュニケーションで相手への気づかいを学んだり、
・体力維持のために運動したり、
などという自己啓発的なものを意味しています。

いつもかなり忙しかったのは確かではありますが、
新聞さえ読まず、家と会社を毎日往復するだけの生活。帰宅はいつも夜中。休日も持ち帰った仕事に明け暮れ、家族との会話も疎か。ご近所や友だちとの付き合いも犠牲にしての仕事漬けの日々。
なので前述の自己投資などにまったく興味が湧かず。

このような生活をしていては、人間力が磨かれる訳などありませんよね。

こういうことに気付かず仕事に没頭していた自分に恥じ入る気分になってきたものです。

いまの自分が如何に無力であるか

なので、会社から一歩外に出ると、おそらく当時のわたしには稼ぐ力などありません。

休職期間中は傷病手当金というありがたい制度があったので、幸い生活に困ったことはありませんでした。
しかし、これがなかったら、あるいは支給期間が終わってしまったら、果たして自分はどうなっていたでしょう?

幸いなことに今では復帰が叶いましたが、会社という後ろ盾を失ったときの自分の無力さに気付いたとき、だいぶショックを感じたのをよく覚えております。そのときは確か、一時的に寝込んでしまったんじゃなかったかな?

このように、闘病期間中にいろいろな面から自分を冷静に分析できたことは、非常に有意義であったと思います。
が、事実として世間でひとりで稼ぐ力がないことがわかってしまい、それまでとは別な意味での不安と焦りを感じるようになってきてしまいました。

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