乾栄一(いぬい えいいち)、43歳。超大手商社・三ツ矢商事株式会社の営業部でチームリーダーを務める、いわゆる中堅社員である。
名門大学を卒業し、同期の中でもひときわ出世欲が強かった栄一は、課長、そして部長へと昇進することを目標に掲げ、ひたすら仕事に打ち込んできた。
入社当初はエリート街道まっしぐらだと信じて疑わなかった。
だが――。近年、その歩みは鈍りつつあった。
成果は頭打ち、同期の何人かはすでに課長に昇進し、なかには部長の椅子に手が届く者も出てきた。
彼らに表向きの祝福の言葉を口にするたび、心の奥底では焦燥と苛立ちが募っていった。
その焦りが、仕事のパフォーマンスに影を落とし始めていた。ふと気づけば、同僚や部下との人間関係もぎくしゃくし始めている。
だが、そんな自分の変化に、自分自身はまだ気づいていなかった。
***
そんな折、栄一のチームに新入社員が配属された。
七瀬沙紀(ななせ さき)、地元の高校を卒業したばかりの、18歳の女性。
その素性を耳にして、栄一は正直言って驚いた。
三ツ矢商事といえば、国内でも指折りのエリート企業。高卒採用が全くないわけではないが、極めて珍しい。
しかも聞けば、かつては地域で名高いレディース暴走族にて、幹部を務めていたという過去まであるという。
喧嘩に明け暮れ、荒れていた少女が、いまやスーツを着てオフィスに立っている。
レディースは突如引退し、一転して勉学に励んだと、面接で自らの過去も正直に語り、その芯の強さが買われて入社に至ったという。
だが、いかに熱意があろうとも、高卒の新人にできることは限られている。配属後の沙紀は、ミスを繰り返し、職場の流れについていけずにいた。
栄一はそんな彼女に苛立ちを感じていた。
最初は軽い指導のつもりだった。だが、次第に言葉は刺々しくなり、口調も冷たくなっていった。
「こんなこともできないのか?」
「それでも社会人のつもりか?」
「いったい学校で、何を習ってきたんだ?」
厳しい叱責は、次第にパワハラまがいの罵声に変わっていった。
栄一にしてみれば、将来ある部下を叱咤しているつもりだったのかもしれない。
だが実際には、心の奥底にくすぶる劣等感が、沙紀という「下」に向けて噴き出していただけだった。
それでも沙紀は、言い返すことなく、じっと耐え続けていた。
口をつぐみ、淡々と業務に取り組む姿は、どこか異様な静けさをまとっていた。
だが――その沈黙の奥に、かつて暴走族を束ねていた、あの鋭い闘志が眠っていることを、栄一はまだ知らなかった。
***
沙紀への栄一の態度は、次第に苛烈さを増していった。
最初は小さなミスに対する注意だったはずが、やがてそれは、執拗な攻撃へと変わっていった。
ある日、会議室の一角。そこにいたのは、栄一と沙紀だけだった。
「ここはな、本来、おまえみたいな高卒の女が入れる会社じゃねぇんだよ」
「偏差値の低い女は、こういう場に立ってること自体、間違いなんだよ」
「おまえが社会の役に立てるとでも思ってるのか? 今すぐ辞めちまえ。俺の足引っ張るな!」
怒鳴り声が壁に反響する。沙紀は唇を噛みしめ、声を上げることなく立っていた。
その目は、静かに栄一を見つめている。それは――あのレディース時代の、敵を見据える目だった。
だが、栄一はそれに気づくことなく、さらに言葉を重ねた。
「なんだ、その目は」
「またレディースに戻って暴れたいのか? お友だちのヤンキー女どもでも連れて来る気か?」
「このヤンキー上がりのクズが」
「だったら、悔しかったら、少しはまともな仕事してみろよ」
その言葉に、沙紀の目に涙が滲んだ。
しかし彼女は、その一滴さえこぼすまいと、必死にこらえていた。
栄一が部屋を出ていくと、彼女はしばらくその場に立ち尽くしていた。拳を握りしめ、天井を見上げる。
「絶対に、見返してやる……」
そうつぶやく声は、誰にも届かず、静かに消えていった。
***
数日後、社内に人事異動の通達が出た。沙紀が、営業部から経営戦略部へ異動となったのだ。
この異動が、いかなる意味を持つのか。誰もが深く考えなかった。
ただ一つ、栄一だけは、安堵の吐息を漏らしていた。
「これで、あいつの顔を見なくて済む……」
だが、それが新たな火種の始まりであることに、彼はまだ気づいていなかった。
***

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